2011年1月16日日曜日

新卒就職難のこと


昨日、大田出版の藤岡さんとかがみさんと呑んで、就活のことなど話した。
自分が苦労したこともあり、前々から新卒就職難の構造については自分の考えをまとめておきたいと思っていたので、思ったことを書き出してみた。
現在手元にない昔読んだ本の記憶の断片を拾って書くので、間違いがあっても勘弁してください。

脳内参考文献は、竹内洋、天野郁夫、山田昌弘、苅谷剛彦、中西新太郎、佐藤俊樹、あたりの本(頻度高い順)です。多分。

えらく長くなってしまったので、要約:

大学(学制)と新卒一括採用の風習は130年前の前近代社会日本で生まれた。
当時の大学の役割は「前近代社会へ近代人を送り出すこと」だった。
50年前には、日本社会が全面的に近代化したが、大学ひいては教育制度全体が根本的に変わることはなかった。
つまり今の教育制度も新卒一括採用も、50年前にはとっくに社会・経済システムと不適合となっている。新卒扱いを3年延ばすとか、小手先の風習の改変は無意味。


以下、本文。


◆新卒一括採用は前近代社会の日本で始まった(明治年間)

日本の大学(東京帝国大学)が官僚養成機関として作られたというのは周知のことだけど、もう少し視点を広げて言えば、大学は「前近代社会である日本社会に近代人を送り出す」機関だった。
明治の頃の日本にあった近代産業セクターというのは、官僚と軍人と学校教員、つまり官業の人間がほとんどで、民間では銀行員と商社マンくらい?でとても小さかった。
官の人間の選抜は、学科試験にほぼ全てを拠っていて、当時は東大を卒業すれば無試験で官僚に任官された(もっと遡ると旧制高校を出れば無試験で東大へ入れた)。なので、その世界では新卒即官僚は当たり前の風習だった。
そして、民間セクターの中でも官に近いところで仕事をしてた銀行みたいな奴らが真似をして大卒新卒採用を始め、その後民間近代セクターが広がるに連れてその風習も広がっていった。
前近代セクター(農工商)では、相変わらず世襲と徒弟制度で労働力を再生産していたので、学制の意味や利用価値が理解されてなかった。
だから最初期に学制を利用したのは四民平等で失業状態になった士族が多かった。

※ちなみに、ここで言う「近代人」というのは、高度のリテラシーを持った人というくらいの意味です。大卒=エリートだった時代の大卒者は、高度な日本語+数学+英語+欧州の外国語もう一つ、くらいは当たり前のようにできたみたいですよ。


◆日本社会が近代化して新卒一括採用は社会と適合しなくなった(昭和40年代)

明治以降日本社会は近代化して行き、ポーンと年代を飛ばして昭和40年(1965)頃、もうほぼ社会全体が近代化していた。
高度成長期は昭和30年(1955)から始まったし、教育面では1971年にはもう中卒者よりも大卒者の方が多い状況になっていた。
大学の数は増えた(最初は公的地位が全く与えられていなかった私立大学なんかも学位授与機関として認められるようになった)し、どの時点か忘れたけれども官僚の任官制度も当然帝国大学以外の大学卒業者にも開かれたものになった。
つまり、日本社会が近代化して、東京帝国大学設立時点の「前近代社会に近代人を送り出す」という大学の役割は終わってしまったし、それが支えた新卒採用という制度も意味を失ってしまった。
はずだった。
けれども、大学の教育システムはほとんど変わらなかったし、新卒採用の風習も変わらなかった。
というのも、日本経済が右肩上がりで成長していたので、近代的産業の労働力需要がどんどん増えており、学制が吐き出す労働力は、そのジョブマッチングシステムが多少時代錯誤になっていようが産業がゴンゴン吸収していたために、マッチングシステムの不具合が全く表面化せず、問題と認識されなかったのだった。
昨今の就職難の問題に対して「大卒が多すぎる」という指摘があるのだけど、大卒どころか高卒だって、もう昭和40年代にはダブついていたと考えて良いのだと言える。もし、大学が果たす社会的機能が「前近代社会に近代人を送り出す」というものであるのならば。


◆新卒一括採用のジョブマッチングシステムがおかしいことが表面化した(昭和48年・第一次オイルショック)

水面下でジョブマッチングシステムが腐っていたものの、高度成長期にはそれは全く認識されなかった。
それが認識されるようになったのは、高度成長期の終わり、つまり第一次オイルショックのとき。
企業はこれ以降新卒一括大量採用を絞り、就職難が生じることで、このシステムが機能不全に陥っていることが明らかとなった。
はずだった。
けれども、この時、就職難が主に高卒に起こったからなのか何なのか(ちょろっと探したけど大卒・高卒の求人倍率などの数字が見つからなかった)、社会的に問題になったのはジョブマッチングではなく進路の振り分けの方で、大学進学競争が激化することになり、偏差値教育が大々的に非難される事となった。
大学のあり方や新卒一括採用の慣行は改められることはなかった。
ただし、昭和40年より前は
中卒=下級ブルーカラー(非熟練工)、高卒=上級ブルーカラー(熟練工)&下級ホワイトカラー(単純事務、ノンキャリ)、大卒=上級ホワイトカラー(企業幹部候補、キャリア)
というように学歴が階級を生産していたのが、
中卒=ほとんどいない、高卒=下級上級ブルーカラー&下級ホワイトカラー、大卒=下級上級ホワイトカラー
というように学歴が階級を生産しなくなり、エリートだったはずの大卒も普通の人になってしまった。
高度成長期以前は俸給生活者=サラリーマンはエリートだったのが、社会全体が近代化してブルーカラーまで新卒一括採用されることとなり、みんながサラリーマンになってしまっていたのだった。


◆同じ事の繰り返し(第一次オイルショック~リーマンショック)

高度成長期終了後に起こってきた就職難の構図は基本的にはずっと同じで、
第一次・二次オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、という不況の度に…
 1.新卒一括採用の風習が社会・経済システムに適合してない
 2.なので不況になると新卒無業者and非正規労働者が大量発生
 3.かといって、学生も企業もこの風習をやめることもできない
 4.なので、学生は学歴(学校暦)競争を頑張り、学生の親の世代は偏差値教育・学歴社会を批判する
こういったことを繰り返してきて、特にバブル崩壊後は2007~2009年の一時期を除いてずっと新卒内定率は低いままで、根本的な問題である教育システムと経済システムの接続は何も改善してない。


◆労働市場はグローバル競争になった(最近)

というわけで、日本で起きてきた新卒の就業システムの問題の構図はもう50年変わってない。
ただ、ここ2~3年くらい?5年くらい?10年くらい?で社会・経済のほうは新しい局面に入ったらしい。
昭和30年代に日本に起こったことが他のアジア地域でも起こっているために、近代人の間の競争がもう日本の枠のなかで収まらなくなってしまった。
日本で近代人が特段エリートでなくなりありふれた労働力になっていったように、アジアでも高等・中等教育を受けた人たちが増え、彼らの出先となる労働市場がエリート的仕事だけではなくなってしまった。エリートというのは基本的にその国の中に留まる方が得られる利得(必ずしも経済的利得ではない)が大きいので留まるけれども、そうでない者は特段その国の労働市場に留まらなければならない理由はない。特に途上国では、より経済発展の進んだ国(アジアなら特に日本)の労働市場で働くことには経済的インセンティブがある。また、日本経済が縮小し、日本企業であっても海外ビジネスの方が大きくなってきてしまったので、日本企業の方にも日本の学生を採用しなければならない理由が薄くなってきてしまった。
これまで日本の中の学歴(学校暦)・労働市場で競争をしていた学生たちが、アジア全体の学生と競争をしなければならなくなってしまった。
したがって、直近の就職難はもはや、新卒一括採用すなわり教育システムと経済システムの接続の不具合のような日本の国内的なものとは違う次元の経済原理が働いての事象になってしまっている。


◆新卒一括採用の風習はもはや問題ではない

新卒一括採用の風習は間違っているという批判は当たっていると僕は思う。もうこの風習には何の合理性もない。50年前から!
けれども、もうそれを改善するだけでは新卒の就職難は大きくは変わらない。卒業後3年間を新卒扱いにしても、解雇規制を緩めて人材の流動性を高めることをしても、改善の見込みはとても少ないように思う。
大学(というか学制そのもの)が果たす社会的機能が「(前近代社会に)近代人を送り出す」というものから改革されない限りは、日本が生み出す労働力は「前近代社会では価値がある」という次元に留まるのであって、アジア全体で見ても大して付加価値がない普通の人でしかないわけで、そうである限り、日本の新卒者の就職難はずっと続く。
教育システムがだめだったとしても、個人の努力で世界的人材になる人はもちろんいるけど、「日本の労働者は優れている」という状況にはならない。


※新卒一括採用の問題は、中国や韓国にもあるはず。経済の拡大が止まるか緩まると顕在化する。いや、もう顕在化してるか。
 欧米で同様のことが起こらないのは、大学が官僚育成機関ではなく、近代化以前からある研究者・知識人コミュニティであって、必要あるときや本人が学びたいとき随時加入するものであるからだと思う。欧米の新卒採用の慣行がどうなってるのかは知らないけど。ただ、中国も韓国も欧米も、日本のような解雇規制はないはずで、雇用の流動性は日本より高くて、新卒採用から漏れることが日本ほど深刻なことにならないのかもしれない。

2010年11月15日月曜日

アブドゥル祭り

◆サウジネタ

サウジアラビアがメッカ・メディナの二大聖地を要するイスラム教国家であることは周知の事実だけれども、国民のなんと100%がムスリムであるという。
投票しないものを反革命分子として逮捕して選挙権を剥奪することにより、北朝鮮の最高人民会議代議員選挙の投票率はほぼ100%らしいのだが、100%というのはそういった類の数字であって、実態としてはありえず、何がしか操作されてないと出てこない数字だと思う。けれども、それはそれとして会ったサウジ人は確かに全員ムスリムだった。

ところで、ムスリムには、それらしき名前がある。ムハンマド(モハメド)って人は本当にたくさんいるし、他にも預言者系の名前、イブラヒーム(=アブラハム)とかイスマイール(サムエル)とかもたくさんいる。
ただ、僕が式典のゲストの招待などをして実際に見た名前では、アブドゥルなんとかがめちゃくちゃ多かった。混乱した。
ジョジョの第三部に「モハメド・アブドゥル」という名前のエジプト出身なのに螺髪の占い師がいたが、あれはステレオタイプなアラブ人ムスリムの名前なわけだ(後述するように間違いがあるけれども)。

手元にあるアブドゥルなんとかさんの名前をリストアップしてみた。

Abdulrahman アブドゥルラフマン
Abdulkarim アブドゥルカリーム
Abdulwahab アブドゥルワッハーブ
Abduladhim アブドゥラヒム
Abdullatif アブドゥラティフ
Abdulrazzak アブドゥルラザック
Abdulhamid アブドゥルハミッド
Abdullah アブドッラー
Abdulmajeed アブドゥルマジード
Abdel Aziz アブドゥルアジーズ
Abd al-Aziz アブドゥルアジーズ
Abdul-azeez アブドゥルアジーズ

アラブ人には日本と同じ意味での姓というものはなく、通常「自分の名前+親父(or家名)の名前」、という構成になっている。
これらは全部最初に来ることもできるし、後に来ることもできる。
例えば「Abdullah Abdel Aziz(アブドッラー・アブドゥルアジーズ)」あるいはその逆というように。
「のいるこいる」でも「こいるのいる」でも「阪神巨人」でも「巨人阪神」でも良い、というわけだ。まあほんとにどうでもいいけど。
だからアラブ人の名前はややこしい。初めて「松尾スズキ」という名前を見たときくらいのややこしさ。
そして、上記の3つの「アブドゥルアジーズ」のように、英語の異字表記がいっぱいあるからなんともはや。。。
まあ、ガイジンからしたら漢字で書いた日本人の名前をどう読むかの方が難しいんだろうけど。日本人にとっても難しいもんなー。

ちなみにこの「Abdul」というのは「Abd Al-XXX」(servant of the XXX)の略式表記らしい。
だからアブドゥルなんとかさんっていう人はみんな何かの下僕という意味になる。
そしてAl-XXXの部分、例えばAbdulrahmanなら「Al-rahman」(servant of the Merciful)は、「ザ・慈悲深い者」という意味なのだけど、これはアッラーの別名の一つなので、意味としては「神の僕」ということになる。他のアブドゥルも一緒で、意味は全部「神の僕」。「Abdullah」なんかはまさに「アッラーの僕」という名前。
アッラーは99の名を持つらしいので、多分99のアブドゥルなんとかという名があるのだと思う。
どうでもいいけど、二つ名どころか99の名を持つとか、アッラーさんの中二力はハンパない。。。


というわけで、ジョジョのアブドゥルはステレオタイプなムスリム風の名前なのだけど、「Abd Al-XXX」のXXX部分が欠けているので、実際にはムスリムの名前としては機能しないんだ。多分。

ついでに上記に挙げた名前の意味を調べてみた。

Abdulrahman 慈悲ある者の僕 (the merciful)
Abdulkarim 高貴なる者の僕 (The Most Generous)
Abdulwahab 与える者の僕 (the giver)
Abdulrazzak 与える者の僕 (the all-provider)
Abduladhim もっとも偉大なる者の僕 (the most great)
Abdullatif 情け深い者の僕 (the kind)
Abdulhamid 賛美される者の僕 (the prised)
Abdullah アッラーの僕 (the allah)
Abdulmajeed 栄誉ある者の僕 (the Glorious)
Abdel Aziz 力ある者の僕 (the powerful)

どれか一つ、僕の二つ名に欲しい。

参考:
JETRO「アラブ人名の由来と正しい読み方」
http://www.jetro.go.jp/world/middle_east/sa/others/pdf/name.pdf





2010年11月14日日曜日

趣味は偶像破壊です


◆日記

先週の失態があり、今週はずっと凹んでいた。
mixi日記で凹み具合を文章化したところ、4人からコメントがあったうちの3人からそれぞれ、仏教・イスラム教・道教をオススメされてしまう始末。

オーケー分かった、せっかくだから俺は幸福の科学を選ぶぜ!(エンターテイメントを重視)

嘘だけど。

あと、入社後3年経ったということで、全社向けにこれまでの業務の成果報告のようなものをすることになった。僕だけじゃなくて同期全員ね。
これまで暖めて暖めて、我慢して我慢して、ちょろっとこぼしてみたり、熱が冷めてしまったりしつつ練り上げてきた、勤め先の標準原価計算システム批判+改善案を、ついに全社に広めるチャンスがやってきた!!

最初は現在の業務(海外事業の立ち上げ支援)を重視して、海外事業の概要紹介をしようとして一昨日部内発表したら、部長から「こんなの幹部はみんな知ってるんだし、全然君の魂が入ってないから、全部やり直しね」と言われてしまった。
確かにそうだ。別にそんなことは好んで報告したいことではない。パンク魂をすっかり忘れてしまっていたようだ。
部長なんていうサラリーマンをやりきったようなポジションの人からファッションパンクと呼ばれるようでは、パンク学部助教授としてのメンツが立たないではないか。
ここは一発、既存の観念をぶち壊してやろうじゃないか!

そう思い直してガシガシとエクセルとパワポをいじっていたら、昨日のうちにほとんど出来てしまった。たった一日で。前の奴は一週間かかったのに。
やっぱり自分が本当にやりたいことをやってるときは集中力が違うな。
というか、これまで当然と思って自分たちが運用していた判断基準を思いっきり否定される幹部の反応を想像すると楽しくて仕方がないのだった。
自分の中に伝えたいことがあるのではなく、人が大切にしてきたものとかがんばって取り組んでいることとかに横槍を入れてブチ壊しにするのが好きなんだな、僕は。フヒヒ


まじめな話、最近自分になんのポリシーも特技も専門性もないことについて悩んで鬱々としていたけども、何か当たり前とされていることについて疑義を呈する、というのが僕のやりたいことで得意なことで好きなことなのかもしれないなあ。
これまでやってきたことを考えるに。




2010年11月8日月曜日

めんどくさい+黒塗り


◆日記

僕は何事も徹底せず中途半端にする性分で、取り掛かりも遅く、事前に必要条件を見極めていないため、取り掛かった後も作業は難航しがちだ。
それでいつもいろいろなことがギリギリになり、遅延やミスが生じたりする。
何度も何度も公私共にそういうことがあって、その度に激しく自己嫌悪しているのだけど、全然治ってない。
こういうのを悪習慣っていうんだろうなあ。
たった今だって、ファスト・プライオリティーを置くべきタスクは寝ることなのにこんな文書いてるしなあ。

この習慣を何とかしない限り、いくら勝間和代を読んだってドラッカーを読んだって架神恭介を読んだって、立派な社会人にもテクノロジストにもリアルパンクロッカーにも禅僧にもなれないし年収も10倍にならないぜ!
まあ実はそれらは比較的どうでもいいのだけど、りっぱな社会人にもパンクロッカーにもなれないということは、モテないということであって、それは問題だ。

先日も女の子の誕生日を聞き忘れていて、誕生日周辺にサシで呑む機会があったのにお祝いできなかった。…ことにあとから気づいた。最悪。死にたい。

なんとかしたい。何から始めればいいんだろう?
ドラッカーによれば(『経営者の条件』)、あらゆる事において常に時間こそが最大の制約条件であって、時間を管理できないものは何も管理できないのだとか。
……うん、それはよく分かる。

そして時間を管理する第一歩は時間の使い方の記録を付けることだという。
……うわあ、それ、すごくめんどくさいなりぃ。。。拙者には無理なりぃ。。。


◆今日のサウジ出張報告テーマ:黒塗り

何が載ってたのが全く分からない。なぜだか、ぼやけた黒い塊を見ているとジワジワと恐怖感が湧いてくる。

これ、お姉さんが着てるのはノンスリーブ+短パンタイプのセパレート水着ですから。全身タイツじゃないですから。
塗り絵、綺麗にできたね!よしよし。


一転してこれは雑だねえ。それはもう塗らなくてもいいよね。上のは塗ってないしね。

これは塗ろうよ。



サウジアラビアでは、生身の女性が肌を隠すのと同様に、2次元の女性も肌を隠すことになっている。なので、海外、特に欧米から輸入した製品に肌を顕にした女性がプリントされている場合は黒く塗りつぶす事になっているようだ。
だけど、全部が全部塗られているわけじゃなくて、写真にもある通り塗られていないものもある。
正直なところやってらんないんだろうねえ。
多分これ小売店の人が作業するんだと思うんだ。お店によって徹底度が違うから。
それで人間が手作業で塗るんだからコストが掛かるわけですよ。
商品によってはお店の粗利なんてホント微々たるものってものもあるわけで、全部が全部丁寧になんてやってらんないよねえ。
かといって一番上の写真みたいにスプレーでバーっとやっちゃうとパッケージが消費者に訴える力がなくなっちゃうし。
難しい。大変だ。面倒だ。

Pink!なんかの洋楽CDも塗られてたけど、中のブックレットじゃなくてプラケースが塗られてただけだから、ケースから出したら肌が顕になっちゃう仕様だった。
隠したいのか隠したくないのかよく分からない。公になってなければいいのか?
(そのCD実物を買って持ってきたのだけど、見つからない。物が管理できてないのだ!)








2010年10月30日土曜日

顔がない

8月28日から10月21日まで、某砂漠と石油とイスラムの王国へ出張してきた。
まあいかんせん仕事目的だったし、かなり忙しくて観光する余裕もなかったのだけど、日本人一般にとっては距離ではなく心理・文化的にかなり遠い世界で、何を書いても珍しい話になると思うので、見聞きしてきたことについて紹介しようと思う。

ちなみに、某砂漠と石油とイスラムの王国に限らず、中東諸国は一部を除いて写真を撮ることに対して一般的に好意的でなく、場合によっては警察(or宗教警察)に注意を受けるような場合もあるらしい。これは『地球の歩き方』にも書いてあったので、事実と考えて間違いない。

であるからしてですね、僕は彼の国では一切写真など撮ってません。
以後僕が彼の王国についての記事にて掲載するだろう写真・画像は、飽くまでイメージであって、僕がどこかから電子的に拾ってきたものである、と、そういう理解でお願いします!


今日のテーマ:顔がない

ショッピングセンターにて。ポスターのモデルの顔がない。
やはり顔がない。それにしても、日本人男性の性か、ボカシで消されるとなんだか卑猥なもののような気がしてくる。

イスラム圏では、一般的に女性が髪やボディーラインを顕にするということは忌避されているのだけど、この国では女性はムスリマ(女性イスラム教徒)であるか否かに関わらずアバヤと呼ばれる民族衣装を頭からすっぽり被って顔を隠すことが法律で義務付けられている、、、らしい。その条文そのものは読んだこと無いけど。
私見ではこれはイスラムじゃなくてアラビア半島の民族文化だと思うのだけど、この国の人はこれをイスラム教の戒律だと思ってる人が多いので、そういうことにしておこう。
じゃあ人間の顔が入ってないイメージ写真を使えばいいじゃんと思うのだけど、ファッション小売のお店だとそうも行かないんだろうなあ。
人間の顔じゃなければいいかというとそうでもなくて、写真を見て気づく人もいるかも知れないけど、マネキンの首もない。これらの店だけではなく、どの店でも、マネキンの首から上は無かった。
写真はないけどスポーツショップのディスプレイの男性モデルの顔もボカされていたので、ディスプレイに関しては女性だからどうこうというわけではないのかもしれない。

でもTVでは俳優・女優が普通に顔を出しているんだよなあ。それはいいんだろうか?
もしかして美の表現として人間の顔を表示するのがいけないのだろうか?つまり、モデルの顔っていうのがいけないのだろうか?
自主規制で?法律で?

まあ理由はよく分からないが、とにかく、この国では人間の顔を服屋のディスプレイに表示してはいけないのだ。


本文とはあまり関係の無いリンク:






2009年12月21日月曜日

【12/21】みかんはなぜかあるだけ食えてしまう

◆日記
先日、教祖マニュアルの件で、月刊誌の『サイゾー』からインタビューを受け、見本誌が先週届いた。
とりあえず先週はあんまり時間が取れなかったので自分が載ってるとこだけしか読んでなかったけど、チラチラ他のところを読んでみると結構面白い。avexって、なんとなく嫌いだったけど偉大な企業だったんだなあ。…「なんとなく嫌い」って、宗教みたいだなw
そんで今朝、通勤中に読もうと鞄に放り込んで家を出たが、駅で取り出してみて気づいた。表紙が小向美奈子だったってことに。その辺のグラビアアイドルだったらまだいいけど、小向さんだと、あの、、、なんというか、、、ヒネりが入ってしまうじゃないですかあ。。。
僕が部屋で読む分には違和感ないが、朝の風景にはちょっと重すぎる。朝から油物を食っている人みたいに見えてしまうのではないだろうか。
というわけで、電車では表紙が人目につかないように丸めて読んでいた。僕は相変わらずファッションパンクだ。
中身について、吉田豪の記事の『球界の野良犬』の紹介文中の「(シンナーは)悩みが忘れられて最高!」のとこで笑った。さすがプロ書評家だけあって紹介されているものが全部読みたくなった。前にムツゴロウさんのインタビュー記事読んだ時も思ったけど、すげえな吉田豪って人は。一冊あたりたった数パラグラフの紹介文でも、下調べ力のハンパなさが伝わってくる。文筆でこんな人に勝てっこないので、僕はサラリーマンをします。

名古屋大学を出て実家の農家を継いだ高校の先輩からダンボール一箱分のみかんが届いたのでさっそく手をつけたところ、瞬く間に6つくらい食べてしまった。飯食った後なのに・・・
別に食おうという強い意志がなくても手が勝手に皮を剥いているというのがみかんの恐ろしいところ。なんなんだあれは。

◆favorite
ちょっと遅れてしまったけど、ソワカちゃんDVD第二巻『覚の巻』が出たことをブログに書いておきたい。僕はamazonの限定版(と言っても売り切れてないようだけど)を予約購入したので、クーやんがついてきた。
「はすのうてな」(第一話その3)は切ないロックとして単体でも聴けるけど、この並びで聴くとより切なさが先鋭化して良い。
「愛別離苦が人の定めとしても時に唐突に心は切り裂かれる」がグッと来る。
そういえばこの間カラオケで「南無666」を歌ったんだけど、ソワカちゃんの映像がない状態で男が歌うと、ぬめり川くん並みにキモイと気づいてしまって挫折した。聴きようによってはちょっと痛いアニメソングっぽくもあるし。


◆英会話
違う講師で2レッスン取って、最初のレッスンは雑談して、次のレッスンでテキストを進めた。
ちょっと最近悩みがあったが講師に相談して心が軽くなった。スキルアップにはならないけど、マンツーマン英会話はカウンセリングとしても使えるということに気づいた。英会話講師はいかなる観点から見ても僕のパーソナル・ネットワークからは完全にアウトサイダーなので、どんなセンシティブな話題でも気兼ねなく話せるからさ。
今日の表現:
I'm not out of the woods yet, but I've gotten through the worst of it.

2009年12月17日木曜日

【12/17】『完全教祖マニュアル』発売!(笑


9月
◆日記
仕事では、予算をなんとか立てた。
いろいろあった。

10月
◆日記
いろいろあった。


11月

◆宣伝
かがみさん・ravenさんとの共著『完全教祖マニュアル』が発売!(ちくま新書)
去年の4月から、この企画にむけてかがみさんたちと準備(勉強会)を始め、一年ちょっとかかって制作した作品なので、達成感はあった。あとは売れてくれればいいのさ。
公式サイト↓

発売直前のエントリ「ヒップホップで学ぶ日蓮」がホッテントリになった。なんという仏縁。

◆日記
いろいろあった。


12月~

◆日記
12/5 ちくまの担当さんにフレンチをごちそうになった。ウマー
『完全教祖マニュアル』は、そこそこ売れていなくもない感じだけど、担当さんも含めて僕らが期待していたほど売れ行きは伸びていない感じだ。
やっぱりタイトルとコンセプトがアレだから、ちょっと立ち読みしたくらいではコンテンツの良さが伝わりにくいのだろうと思う。
でも読んでみると客観的に見ても面白いと思うけどなー。まあ、読んでみればね。
それにしてもみんな(=担当+かがみ+raven)井筒俊彦好きだなあ。僕は外国語学習法の本でしかその名に出会ったことしかないのだけど、レイブンさんおすすめの『イスラーム文化』読むかー。


◆TOEIC
12/16 会社でIP受けた。なんとか時間内に全部の解答欄を塗った。…手応えあったぞ!
でも、手応えあって実際のスコアが良かったことなんてあったっけかなー?w


◆読書感想

時間は最後の一分一秒まで無駄にせず勉強に使えという話。
でもそれを実現するための大前提として、目的が定まっていることが重要だ、と。じゃなきゃ続かないよ、と。
正論だ。僕が三日坊主なのは目的が定まってないからだな。僕の勤め先の経営と一緒で、人生に中長期的ビジョンが無いぜ。

ナイスな質問集。「お母さんはどんな人?」「10年後はなにしてると思う?」「5万円あったら何に使う?」あたりの質問はとても良いと思う。
でも本人も書いてるけど、これを使う前提として自分でこれに答える準備しておかないといけないよね。話を広げたいなら。これは結構本質を突く質問だけに、自問するのもだるいぜ。

相手への貢献(コントリビューション)を第一に考えて人に会っていけば人脈が広がっていくという話。そうなんだろうねえ。よし、僕は人にコントリビュートできることなんてないから家で一人でネットをやることにするぜ!
…僕はあれなんだよねー。いろいろ中途半端で自分のプロフェッションとか軸がないので、「これなら人に貢献できるな」と思えることがない。なんなんだろうなあ。僕のしたいことは。

期せずして、三つとも「自分にビジョンが無い」という自覚に至った。