2011年1月16日日曜日

新卒就職難のこと


昨日、大田出版の藤岡さんとかがみさんと呑んで、就活のことなど話した。
自分が苦労したこともあり、前々から新卒就職難の構造については自分の考えをまとめておきたいと思っていたので、思ったことを書き出してみた。
現在手元にない昔読んだ本の記憶の断片を拾って書くので、間違いがあっても勘弁してください。

脳内参考文献は、竹内洋、天野郁夫、山田昌弘、苅谷剛彦、中西新太郎、佐藤俊樹、あたりの本(頻度高い順)です。多分。

えらく長くなってしまったので、要約:

大学(学制)と新卒一括採用の風習は130年前の前近代社会日本で生まれた。
当時の大学の役割は「前近代社会へ近代人を送り出すこと」だった。
50年前には、日本社会が全面的に近代化したが、大学ひいては教育制度全体が根本的に変わることはなかった。
つまり今の教育制度も新卒一括採用も、50年前にはとっくに社会・経済システムと不適合となっている。新卒扱いを3年延ばすとか、小手先の風習の改変は無意味。


以下、本文。


◆新卒一括採用は前近代社会の日本で始まった(明治年間)

日本の大学(東京帝国大学)が官僚養成機関として作られたというのは周知のことだけど、もう少し視点を広げて言えば、大学は「前近代社会である日本社会に近代人を送り出す」機関だった。
明治の頃の日本にあった近代産業セクターというのは、官僚と軍人と学校教員、つまり官業の人間がほとんどで、民間では銀行員と商社マンくらい?でとても小さかった。
官の人間の選抜は、学科試験にほぼ全てを拠っていて、当時は東大を卒業すれば無試験で官僚に任官された(もっと遡ると旧制高校を出れば無試験で東大へ入れた)。なので、その世界では新卒即官僚は当たり前の風習だった。
そして、民間セクターの中でも官に近いところで仕事をしてた銀行みたいな奴らが真似をして大卒新卒採用を始め、その後民間近代セクターが広がるに連れてその風習も広がっていった。
前近代セクター(農工商)では、相変わらず世襲と徒弟制度で労働力を再生産していたので、学制の意味や利用価値が理解されてなかった。
だから最初期に学制を利用したのは四民平等で失業状態になった士族が多かった。

※ちなみに、ここで言う「近代人」というのは、高度のリテラシーを持った人というくらいの意味です。大卒=エリートだった時代の大卒者は、高度な日本語+数学+英語+欧州の外国語もう一つ、くらいは当たり前のようにできたみたいですよ。


◆日本社会が近代化して新卒一括採用は社会と適合しなくなった(昭和40年代)

明治以降日本社会は近代化して行き、ポーンと年代を飛ばして昭和40年(1965)頃、もうほぼ社会全体が近代化していた。
高度成長期は昭和30年(1955)から始まったし、教育面では1971年にはもう中卒者よりも大卒者の方が多い状況になっていた。
大学の数は増えた(最初は公的地位が全く与えられていなかった私立大学なんかも学位授与機関として認められるようになった)し、どの時点か忘れたけれども官僚の任官制度も当然帝国大学以外の大学卒業者にも開かれたものになった。
つまり、日本社会が近代化して、東京帝国大学設立時点の「前近代社会に近代人を送り出す」という大学の役割は終わってしまったし、それが支えた新卒採用という制度も意味を失ってしまった。
はずだった。
けれども、大学の教育システムはほとんど変わらなかったし、新卒採用の風習も変わらなかった。
というのも、日本経済が右肩上がりで成長していたので、近代的産業の労働力需要がどんどん増えており、学制が吐き出す労働力は、そのジョブマッチングシステムが多少時代錯誤になっていようが産業がゴンゴン吸収していたために、マッチングシステムの不具合が全く表面化せず、問題と認識されなかったのだった。
昨今の就職難の問題に対して「大卒が多すぎる」という指摘があるのだけど、大卒どころか高卒だって、もう昭和40年代にはダブついていたと考えて良いのだと言える。もし、大学が果たす社会的機能が「前近代社会に近代人を送り出す」というものであるのならば。


◆新卒一括採用のジョブマッチングシステムがおかしいことが表面化した(昭和48年・第一次オイルショック)

水面下でジョブマッチングシステムが腐っていたものの、高度成長期にはそれは全く認識されなかった。
それが認識されるようになったのは、高度成長期の終わり、つまり第一次オイルショックのとき。
企業はこれ以降新卒一括大量採用を絞り、就職難が生じることで、このシステムが機能不全に陥っていることが明らかとなった。
はずだった。
けれども、この時、就職難が主に高卒に起こったからなのか何なのか(ちょろっと探したけど大卒・高卒の求人倍率などの数字が見つからなかった)、社会的に問題になったのはジョブマッチングではなく進路の振り分けの方で、大学進学競争が激化することになり、偏差値教育が大々的に非難される事となった。
大学のあり方や新卒一括採用の慣行は改められることはなかった。
ただし、昭和40年より前は
中卒=下級ブルーカラー(非熟練工)、高卒=上級ブルーカラー(熟練工)&下級ホワイトカラー(単純事務、ノンキャリ)、大卒=上級ホワイトカラー(企業幹部候補、キャリア)
というように学歴が階級を生産していたのが、
中卒=ほとんどいない、高卒=下級上級ブルーカラー&下級ホワイトカラー、大卒=下級上級ホワイトカラー
というように学歴が階級を生産しなくなり、エリートだったはずの大卒も普通の人になってしまった。
高度成長期以前は俸給生活者=サラリーマンはエリートだったのが、社会全体が近代化してブルーカラーまで新卒一括採用されることとなり、みんながサラリーマンになってしまっていたのだった。


◆同じ事の繰り返し(第一次オイルショック~リーマンショック)

高度成長期終了後に起こってきた就職難の構図は基本的にはずっと同じで、
第一次・二次オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、という不況の度に…
 1.新卒一括採用の風習が社会・経済システムに適合してない
 2.なので不況になると新卒無業者and非正規労働者が大量発生
 3.かといって、学生も企業もこの風習をやめることもできない
 4.なので、学生は学歴(学校暦)競争を頑張り、学生の親の世代は偏差値教育・学歴社会を批判する
こういったことを繰り返してきて、特にバブル崩壊後は2007~2009年の一時期を除いてずっと新卒内定率は低いままで、根本的な問題である教育システムと経済システムの接続は何も改善してない。


◆労働市場はグローバル競争になった(最近)

というわけで、日本で起きてきた新卒の就業システムの問題の構図はもう50年変わってない。
ただ、ここ2~3年くらい?5年くらい?10年くらい?で社会・経済のほうは新しい局面に入ったらしい。
昭和30年代に日本に起こったことが他のアジア地域でも起こっているために、近代人の間の競争がもう日本の枠のなかで収まらなくなってしまった。
日本で近代人が特段エリートでなくなりありふれた労働力になっていったように、アジアでも高等・中等教育を受けた人たちが増え、彼らの出先となる労働市場がエリート的仕事だけではなくなってしまった。エリートというのは基本的にその国の中に留まる方が得られる利得(必ずしも経済的利得ではない)が大きいので留まるけれども、そうでない者は特段その国の労働市場に留まらなければならない理由はない。特に途上国では、より経済発展の進んだ国(アジアなら特に日本)の労働市場で働くことには経済的インセンティブがある。また、日本経済が縮小し、日本企業であっても海外ビジネスの方が大きくなってきてしまったので、日本企業の方にも日本の学生を採用しなければならない理由が薄くなってきてしまった。
これまで日本の中の学歴(学校暦)・労働市場で競争をしていた学生たちが、アジア全体の学生と競争をしなければならなくなってしまった。
したがって、直近の就職難はもはや、新卒一括採用すなわり教育システムと経済システムの接続の不具合のような日本の国内的なものとは違う次元の経済原理が働いての事象になってしまっている。


◆新卒一括採用の風習はもはや問題ではない

新卒一括採用の風習は間違っているという批判は当たっていると僕は思う。もうこの風習には何の合理性もない。50年前から!
けれども、もうそれを改善するだけでは新卒の就職難は大きくは変わらない。卒業後3年間を新卒扱いにしても、解雇規制を緩めて人材の流動性を高めることをしても、改善の見込みはとても少ないように思う。
大学(というか学制そのもの)が果たす社会的機能が「(前近代社会に)近代人を送り出す」というものから改革されない限りは、日本が生み出す労働力は「前近代社会では価値がある」という次元に留まるのであって、アジア全体で見ても大して付加価値がない普通の人でしかないわけで、そうである限り、日本の新卒者の就職難はずっと続く。
教育システムがだめだったとしても、個人の努力で世界的人材になる人はもちろんいるけど、「日本の労働者は優れている」という状況にはならない。


※新卒一括採用の問題は、中国や韓国にもあるはず。経済の拡大が止まるか緩まると顕在化する。いや、もう顕在化してるか。
 欧米で同様のことが起こらないのは、大学が官僚育成機関ではなく、近代化以前からある研究者・知識人コミュニティであって、必要あるときや本人が学びたいとき随時加入するものであるからだと思う。欧米の新卒採用の慣行がどうなってるのかは知らないけど。ただ、中国も韓国も欧米も、日本のような解雇規制はないはずで、雇用の流動性は日本より高くて、新卒採用から漏れることが日本ほど深刻なことにならないのかもしれない。

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