2013年9月29日日曜日

日本滞在まとめ



◆UM結成9周年記念イベント「9日目の雨」
9周年おめでとう御座います!


写真:マタリカ(真剣に解散を考えている。)、ホーデン(燭台(仮))、藤宮☆タク(アム)

アムは相変わらず複雑な曲展開かついろんな表現手段(音楽、エフェクト、映像、ダンス他)を織り交ぜてて全然ノれないけど、ひとつのステージとしてまとまってるのがすごい。現在につながるアムとしては9年の、藤宮くん個人の試行錯誤としては14年くらいかかってて到達してる境地だからな。
この時藤宮くんにもらったアムの比較的新譜の『雨の夜の為の室内楽』のシークレットトラック(?)が懐かしい曲で和んだ。
この後打ち上げで神楽坂エクスプロージョン(ライブハウス)のすぐ横の居酒屋竹ちゃんで、燭台(仮)の蜉蝣ことサイクロプスのモミー氏と一緒に帰国後初のたまごかけごはんを食べた。なんかたまご以外にもふりかけがかかっててすげーうまかった。
その後、祖父母宅と実家に滞在中は毎朝たまごかけごはん食ってた。
蜉蝣くんとは色々熱く語った気がするけど、結論はいつも「サウジに来なよ」だった気がする。サウジに来れば大体のことは解決するから。


マタ「日本に帰って来たら玉子かけご飯を食べたかったんだよー!」
蜻蛉「玉子かけご飯ってめっちゃ美味しいですよね!」

マタ「Zzzzz...」
蜻蛉「Zzzzz...」
https://twitter.com/um0919/status/379578877724459008/photo/1
https://twitter.com/um0919/status/379579149607632896/photo/1
(撮影:藤宮☆タク)

たまごかけごはんを貪って睡眠に入るまでの二人のシンクロ率、100%。


◆サイクロプス飲み会
歌置き場というサイトにてクソ漫画の楽曲化に取り組んでいたJJ氏と架神さんが中心となってクソ漫画愛好者を集めて結成された「サイクロプス」というバンドに、なぜかクソ漫画愛好者ではない僕も参加していた。このバンドはもう活動してないが、今回いろいろ都合が合った(一部無理やり合わせた)のでメンバーで集まって飲んだ。高学歴とDQNで結成された二極化社会を体現したバンドだが、クソ漫画話とDQN自慢には階層の垣根がないのが素晴らしい。僕はDQNとリア充が嫌いだが、このメンバーと話してる間だけはDQNを愛せる気がしてくるから不思議だ。リア充は愛せない。
元シンクタンクで現在某人材輩出企業にお勤めのキーボード担当の愚痢威怒(グリイド)様の話によると、今イスラム関連のセミナーが盛況であり、ほとんどイスラム地域について知らないような輩でも無料セミナーを開けば満員だとか。イスラム関係コンサルタント業を開業するなら今だ、と焚き付けられた。別に金にならなくてもいいけど、日本に本帰国したらなにかできるよう材料集めしたい。
ちなみに、このバンドでの僕の名前は暗井くんです。
関連:二晩連続で飲んだ蜉蝣ことモミーのブログ記事「サイクロプス」
http://ameblo.jp/syokudai/entry-11616346447.html


◆アートアクアリウム(ナイトアクアリウム)
http://h-i-d.co.jp/art/nihonbashi/

もし開催期間中に帰れれば見ようと思ってた催し。見れてよかった。たしか金魚すくいは海外一部地域では動物虐待とされているらしいが、それならこれも虐待ではないだろうかと思うが、綺麗だからオッケーだよね?
横長のスクリーンをバックに鯉を泳がせて四季の映像を流す奴はそんなに面白くも綺麗でもなくて別に要らないんじゃないかと思ったけど、人の流れを制御するために必要なのかもしれん。
会場はカップルだらけだったので、脳内で一組ずつ殴って歩いた。


◆ロボットレストラン
かがみさんが絶賛してたショーレストラン(?)@新宿。これは絶対見ようと思って帰国した。うまく予定が合ってかがみさんとその友人と一緒に見れた。




静止画を見ると、女の子がきわどい衣装で踊っててエロそうだなと思うかもしれない。僕もそう思ってたしそう期待してた。
もちろんそういう要素はあったけど、そういう要素では語れないというか括れないというか、このショーが何なのか一言で言い表すのは無理だ。最初に女の子が出てきた時には「エロい女の子キター(ニヤニヤ)」的な感情を持ったけど、その後ショーが動き出してからは、そうやって欲情する暇がほとんど無かった。
若い女の子、エロい衣装、踊り、ノリの良い音楽、恐竜、きぐるみ、でかいロボット、クルクル動くロボット、未来的な乗り物、とにかくビカビカ光る電飾、戦闘、勧善懲悪、ちょっとしたスタント。。。
こう、ショーの観客が喜ぶ要素というものを思いつく限り全部詰め込んだ結果がこれ、というような。コンセプトとかマーケッティングどうこうとか、そういう思想を超越したところにある見世物。
天国か地獄かで言ったら天国かなあ。自分が事故に遭ってしばらく昏睡した後に目を覚まして見た光景がコレだったら天国と思うもん。いま新宿に絶対神の預言者が遣わされて天国のビジョンを説くとしたらこんな感じだと思う。でも、人々が理解できるかどうかは分からない。観客の1/4くらいはガイジンだったけど、一体これを何だと思ったのだろうか?こういう経験をすると、人間の理解と言語による表現には本当に限界があるなあと思わされる。
そう考えると、全知全能の絶対神というものがいたとして、その神が預言者や使徒や子を遣わすとして、それまで数百年くらいのスパンで随時派遣してたのに2000年前とか1400年前とかのある時点でその派遣を止めてしまうというのは一体どういう了見なのかと疑問を持たざるをえない。人間の文明の発展とそれに伴う理解や表現の進展に合わせて随時派遣しないとうまく神の意図が伝わらないでしょう?1400年前はメディアといえば口伝と文字だけだっただろうけど、現代のアーティストを預言者として選べば、ロボレスみたいな舞台を作ることや、映像を作ることや、オーディオ作品を作ることで人々にもっとクリアに預言を伝えることもできるわけだし。
例えばロボレスが天国そのものだったとして、神が1400年前の砂漠の商人にロボレスのビジョンを見せても「光る女と人間の形の鉄が踊ってて、まぶしい」くらいの理解しか得られないし、ビジョンを見ていないその辺の人たちに説明し得ないと思う。たとえその人物がどんな天才だったとしても。神に限りはなくとも人間には限りがあるわけだから。というか「川が流れて果樹がそこら中に実る」とか、砂漠に住む人間の理解でしかないと個人的には思う。温帯から熱帯の湿潤気候の地域の人が聞いたら「え?俺たちが住んでる所天国じゃね?」ってなりかねないし。多分預言者が東南アジアに派遣されてたら神が与えたビジョンが一緒だったとしてももっと違う天国像を得たはず。フィリピンとかインドネシアのムスリムがどう考えてるのか知らんけど。


◆ヒゲドライバー
CAMPFIREでやってたヒゲドライバーのバンド音源プロジェクト支援のリターンで、ヒゲドライバーのこれまでの自主制作音源一式が実家に届いてた。とりあえず全部mp3にして持ってきてサウジで聴いたけどどれも結構いいなあ。アマチュアがこんな音楽作ってたら、そりゃプロの市場は苦しいよなあ。プロの音源じゃないと満足できないというような要素ってもうほとんどないんじゃないの。メジャーシーンではPurfumeだけ健在ならそれでいいです。


◆まとめ
とりあえず総体として日本に帰っていつも思うのは、日本は本当に素晴らしい国だということ。自由がある。自由があることが目に見える。
女性が髪も顔も胸も腕も足も出して歩いてるし、女性が普通に働いてるし、宗教警察に逮捕される心配なく女性と話せるし、酒飲めるし、東京にはあらゆる種類の食があるし、ライブハウスがあるし、ライブハウスでなくてもそこらじゅうで音楽が流れてるし、ID持ち歩かなくても心配ないし(サウジでは外国人はおろかサウジ人もナショナルID持ってないと出歩けない)、特定宗教の教義にしたがって生活しなくてもいいし、水準の高い医療にも簡単にアクセスできる。まあ、酒とか食とかはどうでもよくて、女の子と接触ができるのがとにかく素晴らしい。

外国人として日本で暮らせば日本人として日本で暮らすのとは別の感想があり得ると思うけど、警官やガードマンの数が少ないことを考えても、在サウジの外国人よりは在日本の外国人の方が住みやすいと確信する。信教の自由もサウジよりは確実にあるし。
自由が幸福の構成要件の一部であるのであれば、日本で生活できることは幸せだと、日本在住の人には自覚してほしいね。

あと、日本からサウジに帰ってきたら「痩せたね、焼けたね」って会う人みんなに言われてる。実際に体重が1kgくらい減ってた。日本の人は「サウジに滞在」と聞くと日焼けするイメージのようだけど実際は違う。日本は外を歩くけどサウジでは歩かないから。歩かないから、太るしね。



2013年1月16日水曜日


これ
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200422383787211&set=a.2168156208503.2153830.1384647064&type=1
に対する感想。
FBに書いたけど長くなりすぎたので転載。
内容的には『生物から見た世界』のステマです。

以下転載:

人間の物の認識の仕方は環境によって変わるので、朝のラッシュ時の駅は芸術的音楽を認識する条件が揃っていないというだけの話。
往来で男性が美女を見ても性的に興奮しないかもしれないけど、男性の自室でふたりきりなら興奮するんじゃないの。空腹でないときに他人の病室に置いてあるフルーツバスケット見ても”飾り”という認識だけど、空腹の時に自宅の台所にフルーツバスケットがあったら”食べ物”の認識になる。
路上ミュージシャンに限らず、店やら建物やら人やら、通勤ルートにも興味深いものは無数にあるが、それを”風景”じゃなくて「今入りたい店」「研究対象になる建物」「話してみたい人」とかいちいち認識していたら、まず、会社に辿りつけない。
人間も動物も、自分の目的・都合に沿ってかけたフィルターを通して世界を認識するので、他に優先すべき目的(あと◯◯分で会社に着く)がある場合には、それに寄与しない要素は”風景”として、非常に小さな情報量として処理するのが合理的だからそうしている。そうしないと生きていけない。
世界に存在する全ての物を、物その物として、ありのままに、本質を、認知しようなどということは、そもそも感覚器の限界もあるのでどんな動物にも不可能であって人間も例外ではない。
経済的価値と交換可能な芸術には、それがそのように交換される(べきと認識される)にふさわしい環境というものがあってそのような交換価値が付いているので、それそのものがそれだけで価値があるという事にはならない。

以上
以下、ツイッターから。



高名な芸術作品全てを鑑賞しなければならないわけじゃない。知り合った人と必ず友達にならなきゃいけないわけじゃない。古典をすべて読まなきゃいけないわけでもない。世の中には人生を捧げるくらいの価値のものが無数にあるので、99.99%無視して生きても問題ないし、人はそうして生きている。

音楽なんて、あれば楽しい事もあるけど無くても問題ない。世の中には僕が普段踏みつけて歩いているような砂とか泥とか虫とかを人生をかけて研究している人だっていて、その人にとってのそれらが音楽家にとっての音楽に劣るものだとは思わない。でも、僕はそれを無視して踏みつけて生きてもいいはず。

ちなみに、「砂とか泥とか虫とかを人生をかけて研究している人」は、『ボーンズ』のホッジンズ博士。


以上

以下、元記事

http://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200422383787211&set=a.2168156208503.2153830.1384647064&type=1

ある寒い1月の朝、一人の男がワシントンD.C.の駅で座りながらバイオリンを弾き始めました。彼はバッハの曲を1時間程演奏しました。その時間帯は通勤ラッシュだったため、約1100人がその男の前を通りました。
3分後、ある中年の男はバイオリンを弾いている人がいると気づき、足を止めました。しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。
1分後、バイオリニストはやっとお金を稼ぐことができました。ある女性がケースに1ドル札を投げ入れましたが、彼女は止まることなく歩き続けました。
少しした後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く者が現れましたが、腕時計を見るとすぐに歩き始めました。会社に遅刻しそうだったのです。
一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子はバイオリニストを聞こうと足を止めます。お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせました。それでも男の子はずっと後ろのバイオリニストを見ながら去って行きました。他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。
彼が演奏した一時間内で、足を止めて彼のバイオリンを聞いたのはたった6人でした。お金を入れてくれたのは20人程でしたが、止まった人は誰もいませんでした。稼いだお金はたったの32ドル。彼が演奏をやめ、駅が沈黙に包まれた時、気付いた人は誰一人いません。拍手はなく、このバイオリニストを認める人はいなかったのです。
バイオリニストの名前はジョシュア・ベル。彼は世界で最も才能のあるミュージシャンの一人です。彼はたった今、歴史に残る傑作を演奏したのです。それも3億円のバイオリンを使って。
彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、一枚一万円するものの全て売り切れました。
これは実際にあった話です。ジョシュア・ベルが素性を明かさず行ったこの演奏は、人々の視覚・嗜好・優先順位を研究するための実験としてワシントン・ポスト紙によって行われました。私たちは本当に「美しさ」を理解しているのだろうか?それをちゃんと足を止めて味わっているのだろうか?予想していない状況でも、才能を感じ取ることはできるのだろうか?
一つ結論として言えるのは、
もし私達は世界で最も才能のあるミュージシャンが、歴史上一番の傑作を演奏してさえ気付かないのであれば、私達は他にもきっと多くの「美しいもの」を見過ごしているのではないか?


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2012年2月22日水曜日

いくら本番で鍛えていると言ってもバックグラウンドでの練習は常に必要という話

 赴任してきてからなんか頭の回転が悪くなっているような気がしている。頭というか、前からそうだけどさらに注意散漫になって考えが浅くなったような。
 仕事が多岐に渡っていいるとかの仕事とスケジュールにまつわる理由以外に、本を読んでないという理由もあるような気がしている。
 少なくとも今年に入ってから、本を読んでいない。1ページも読んでいない。去年もほとんど読んでない。
 活字と言うなら、仕事でだって契約書も読めば税務規則も読むけど、そういった実務の活字を読む体験と本を読む体験というのは全く違うもののように思う。
 仕事でも私生活でも、必要上読む文章ってのはその情報が直面している状況に機能することが重要なんであって、その背景にどういった理論があろうがなかろうがどういった公理に基づいていようがいまいが、大抵関係ない。どうでもいい。
 法律はもちろん大体の分野にはそれなりの決まりごとの体系や理論があるわけで、常にそれに基づくのが正しいんだろうけど、ある実際的状況に対処するときにそれを追うかっていうと、すくなくとも僕は追ってないな。
 経理の仕事で言えば、例えば仕訳に悩んだ時にIFRSの精神的に考えて~とか考える事もないではないけど、普通は会計士やら本社の経理部やらに訊いてしまうか該当する会計基準やフレームを参照して終わりにする。理論的な検討とか、しない。すべきなんだろうけど、しない。時間ないし。
 でも本を読むという行為では、いや、世の中には本当にいろいろな本があって一概には言えないけど、一つの命題や理論を突き詰めていくことが可能で、最近の僕にはそういうことが足りていないのではないだろうか。実際の問題に際して理論的に体系的に考えて行動を決めるということができないのは、時間がなくてとかではなくてそういう習慣が失われた(or元から持っていない)だけではないか、本を読んでそういう習慣を取り戻さなければ(or身につけなければ)いけないのではないか、と思った次第。
 まあ、考える習慣というか、専門的知識に関して言えば、それを使う状況になった時に前もって頭に刷り込まれていない体系的知識は、状況に応じて参照して利用するとかできず、予め叩きこんでおくことが必要で、そういう意味でも(学習の一環としての)読書が必要ってことだろうか。


 似たような現象として、最近自分の英語が下手くそというか雑になってきている気がしている。文法が以前にもましてテキトーになっている。
 これは、最近お勉強としての英語をやっていないからではないだろうか?もう1年くらい、正しい英語表現を心がけて体系的に学習するということをしていない。さっきの話で言えば、本を読んでいない状態。
 英語圏ではないところのビジネス英語というのは、非常にシンプル、かつ、文法はテキトーだ。みんなネイティブじゃないので、誰でもミスを犯すわけで、いちいち文法ミスを気にする人などいない。文法的な理由で相手の言っていることがわからない場合は確認のために質問をするだけ。自分がしゃべる時は、まず短い文で結論を言ってから、それが不十分ならあとから修正したり補足したりすればいい。どれも短くて文法がテキトーな文で。文法的な正確性よりも反応の速さのほうが重要だ。
 僕の英語はハッキリ言って下手だけども、サウジ人同僚やパキスタン人会計士やドイツ人輸送業者やインド人水道屋やフィリピン人人材派遣業者やサウジ人不動産屋と毎日打ち合わせや交渉なんかをしているわけで、いまの仕事環境に十分なだけの英語能力がとりあえずはあって、それなりの経験も積んできた。なのになんだか前より下手くそになっている。
 これはひとえに、長らく”正しい英語”の学習をしてないからだと思う。TOEICは役に立たない試験だとよく言われるが、あの英語は少なくともブロークンではないわけで、あれの勉強をしてた頃は反応速度は非常に遅かっただろうけども、よりブロークンでない英語を話していたように思う。反応速度が上がった今、というか、本当は常に、正しい英語の学習をする必要があったんではないかと思っている。
 いっくら本番でそのスキルを使っていて、ある面(この場合は反応速度)に成長が見られたとしても、本番で磨かれる面がそのスキルの全てではない、というか本番で磨かれる部分というのは偏っているので、オフ本番で満遍なく色々な面を磨かなければいけないんだな。
 経理(といっても広いが)の仕事をしているからといって簿記・会計の勉強が不要かといったらそんなことはないというのと同じ。

 というわけで、今日から、伊藤さんからもらったのに放置していた『20代からのファイナンス入門』を読みはじめたりDSの『英語三昧』を再開したりしようとおもう。


 ちなみに、アラビア語の勉強はゼロで、あれです、もうアルファベットもおぼつかなくなって来ました。





2011年5月19日木曜日

チュートーですよ

サウジではリビング・キッチン付き(つまりスイーツ)のホテル(300リアル≒6000円強/泊)に泊まっているので、時々自炊してる。
豚肉やみりんや日本酒以外は大体手に入るので、意外と普通に自炊できる。

サウジアラビアは特に外国人にとってはマジでリアルに本当に本物のハンパなくエグい程娯楽のない国なので、食事は最大の娯楽で、料理はとても有用な息抜きになる。
大切な事なので二度言いますが、サウジはマジでリアルに本当に本物のハンパなくエグい程女性と触れ合えない国なうえにネット上のポルノもかなり厳しくフィルタリングしています!
ギギギ……

性欲が食欲に転嫁されるわけではないと思うけど、日本にいる時とは飯を楽しみにする度合いが全然違う。自炊でも外食でもいつも飯が楽しみでしょうがないしガッツリ食べてしまう。楽しみなので食ってる飯とかを紹介したくなってついツイートとかしてしまう。そして太る。そして、太る。さらに太る。
一昨日久しぶりに体重を測ったら87kgあった。嘘だろ…
でもそういえば最近撮ってもらった写真には、僕の代わりにラクダや馬の脇に佇む、鶴瓶みたいな感じの顔の見知らぬメガネデブが写ってたんだよなー。ことごとく。

90kgに乗ったらなんとなく取り返しが付かないと思い、部屋でやる腹筋の他にホテルの事務で運動を始めた。一応、ここ3日は続いている。


ちなみに、一人で食ってるような画が多いけど、それはいつもかなり年上の人達と飯を食う関係上、写真を撮ったりするのを遠慮しているからで、かなりの割合で日本人上司と飯を食いに行っている。一緒に作ったりもする。基本的にドライバー付きの社用車しか移動手段がないから、あまり自由行動はない。


エビチリ:
クックドゥ使用。手軽に日本味のおかずができるし運ぶのもかさばらないのでクックドゥはかなり重宝する。

しょうがとチキンのスープ:
チキンをたくさんのしょうがと一緒にコンソメスープで煮た物。風邪引いてたので。

なすとトマトとチキンのスープと、買ってきたアラブサラダ:
サラダの正式名称不明。なんかの香菜を刻んでお酢をかけた物。香りが良くて食欲が湧く。

ゴーヤチャンプルー:
スーパーでゴーヤを普通に売ってるんで驚いたけど、ゴーヤの原産地ってインド~東南アジアなんだな。じゃあアラブへの伝播の方が沖縄・九州より早いよな。






2011年4月21日木曜日

イン・ユーテロ

 サウジ。4度目。
 12日20:50に成田を出て13日24:15(両方日本時間)にリヤドに着いた。疲れた。

 サウジに来ないとブログを書いてはいけないという縛りがあるわけではないがなぜかそうなっている。

 着いた日は砂嵐がひどかった。その日は日本が唯一の招待国として特別展示をしている国民的祭りジャナドリア祭の開会日でもあったんだけど、砂嵐で国王一行がなかなか来れず開会式が8時間遅れるというパンクっぷり。しかも結局国王は来なかった。早い段階で中止しろよもう…国王参加とあって多くの人(要人もかなり含む)が待っていたらしいじゃない。可哀想すぎ。
 開会式が5時間遅れている頃リヤド空港に着いた僕は、入国審査窓口で3時間待たされ、奇しくもちょうど開会式が始まった頃にゲートを出てきた。並んでたのは各列に30人くらいなもんで、特段死ぬほどの混雑ということはなかったが、最初の2時間は列になんの動きもなく、それでいて何の情報もなく、待たされた。一緒に並んでいたパレスチナ系アメリカ人だという青年が「ジョーク、ジョークだろこれ」とブツブツ言っていた。
 入国係官の入国待ちの人々(特に南アジア・東南アジアからの出稼ぎ労働者)に対する扱いはかなり酷く、列を整理するために先頭の人間の肩と襟元を無言で掴んで動かし、後列の方の人間にはバシバシと肩を叩いて回っていた。おいおい、そいつらの殆どもムスリムなんだから、ムスリム同士敬意を払えよと思った。
 なお、税関ではスーツケースを改められ、CD・DVDケースを開けられ「ノー・セックス、アブソリュートリー?」と訊かれたので、「オフコース!アブソリュートリー!」と元気よく答えると、特に再生チェックなどはせず元に戻された。椎名林檎のDVD数本と、こちらの滞在者へのプレゼントである映画(バットマンシリーズ、007シリーズ)などが入っていたが、事実としてノーポルノだったので自信満々に答えてやったぜ! まあ、再生されたら椎名林檎も007も見咎められる可能性はなくはないが。


 毎回サウジ出張では飯をよく食うせいで弛んでいる腹をさらに弛ませて帰るような状態なので、今回は逆に凹ませてかえってやろうと思い、成田でちょうど腹凹特集だったTarzanを買ってきていた。さっそく2日目からチャレンジしたが、最初のステップのページを開いたところいきなり30種類のトレーニングを要求されて即座に萎えた。なんとか10種類だけやったけど、動きを理解するために腹より脳が疲れた。そして次の日の朝にはしっかりと風邪を引いていた。身体が脆すぎる。。。
 山は超えたけどまだ鼻が詰まる。


 女性の肌と見ればなんでも隠したくなるのがサウジ当局だが、果たしてこれは隠す必要があるのだろうか?内臓もポルノだから?ポルノじゃなくてグロだから?だってカートみたいだから?私がコートニーじゃないから?






















2011年2月8日火曜日

英語ができないとどんだけやばいのか


サウジに出張に来ると、日本にいる時よりも長く睡眠をとるのに、眠い。
時差ぼけの影響もあるかもしれないけど、二ヶ月もいた前回もそうだったので、多分日本で仕事するよりも疲れるんだと思う。

今こっちでやってることは会計監査の対応で、実はやった事が無い業務なので、日本でやっても疲れるんだろうけど、不慣れな土地でやってるからなおさら。
特に、何度も何度も書いてるからアレなんだけど、やっぱり英語が問題なのだと思う。
普通の議事録や連絡のメールなんかでも日本語で書く場合の1.5倍位の時間がかかる。
僕の英語の情報処理能力は多分日本語の半分以下なんだろうけど、英語で書いたり話したりするときはアウトプットする分量を絞らざるを得ないので、時間は2倍にはならないんだなー。頭の負荷は高いけど。
そういう意味では要点だけ掻い摘もうという努力にフォーカスが行くのは、外国語を使う利点かもなあ。日本語だと書きすぎちゃうから。


それはさておき、英語ができないとどんだけやばいのか、やはり英語で仕事をすると身につまされてくるので、自分を叱咤するために感じたことをメモしたい。
前の出張時もどこかで似たようなことを書いたけど気にしない。



◆まず、採用されない
サウジでの勤め先では既に8人のサウジ人を雇っているけれども、本社に置いている人員は、最低限、業務連絡くらいは英語で会話ができることを面接で確認して選んでいる。
これは当たり前で、日本人でビジネスレベルのアラビア語ができる人なんでほとんどいないのだから、少なくとも社内にはいないのだから、部下と意思疎通ができるためには部下が英語ができることが必要だ。日本語がペラペラなサウジ人も一人雇っているのだけど、彼は例外。
これと同じことが日本で起こらないなんて、誰が言えるのだろうか?
完全外資の企業であれば当たり前だろうけど、部分外資であっても、ホワイトカラーであれば自分が身を置くレポートラインに一人でも非日本語話者がいれば報告は英語で流さざるを得ない。
だから会社は、それが出来無そうな人は採用しない。
純日本企業であっても、事業を海外展開している場合、ホワイトカラーであれば英語が必須になるのは自明だし。楽天とかユニクロとかソフトバンクの例のように。
よく、「英語が出来ても仕事ができなきゃしょうがない」と言う人がいて、その文言自体は間違いじゃないけど、英語でビジネスする環境では英語ができないと仕事にならない。「英語が出来ることに付加価値はない」ということは「英語ができなくてもよい」ということは違う。それらを取り違えないようにしないと困る。


◆低い階層の職に採用されるかもしれないけど、昇進できない
サウジの工場では作業員を雇う。彼らには英語が出来るかどうかは不問で、人材派遣会社に人選を任せる。まあ、話せるに越したことはないけど。というのも、幹部やスタッフ(製造・技術・事務含む)が彼らに直接指示を出すことはないから。
逆に考えると、現業職であっても、スタッフ以上の人員と直接やり取りするクラス(現場の一工程の1シフトの長相当)には英語でのコミニュケーション能力が要求されるということなんだなー。
とすれば、英語ができない場合、上の作業員から指示されたことのみを黙々とやる単純労働からは抜け出せないことになる。技能の問題ではなく英語の問題で。
ただ、インド人は底辺の人でも流暢に英語話すんだよねー。僕は聞き取れないんだけど。

あと、オフィス仕事で言うと、ある程度英語での会話で意思疎通ができれば、読み書きが怪しくても事務作業員にはなれる。
でも、読み書きが怪しいと、スタッフ(ホワイトカラー、総合職)にはなれないんじゃないだろうか。
話してると特に英語に不自由な感じはしないけど書かせると全然意味が分からない英文を書く人というのもいて、単純な連絡事項のメールくらいならいいけど議事録とかはきつい。多分彼らは学校での規範的教育ではなくいきなり仕事上の実践で英語を学んだんだろうなあ。なんでA4×2枚の報告書に5個くらいしかピリオドがないんだろう?
経営者への報告は通常文書でするので、書けないと一定以上の階層の職員にはできないと思う。


◆結論:
日本経済がもっとグローバル化したら、普通の民間企業では、英語ができないとホワイトカラーにはなれない。もしくは、なれる可能性がとても低くなる。



2011年1月16日日曜日

新卒就職難のこと


昨日、大田出版の藤岡さんとかがみさんと呑んで、就活のことなど話した。
自分が苦労したこともあり、前々から新卒就職難の構造については自分の考えをまとめておきたいと思っていたので、思ったことを書き出してみた。
現在手元にない昔読んだ本の記憶の断片を拾って書くので、間違いがあっても勘弁してください。

脳内参考文献は、竹内洋、天野郁夫、山田昌弘、苅谷剛彦、中西新太郎、佐藤俊樹、あたりの本(頻度高い順)です。多分。

えらく長くなってしまったので、要約:

大学(学制)と新卒一括採用の風習は130年前の前近代社会日本で生まれた。
当時の大学の役割は「前近代社会へ近代人を送り出すこと」だった。
50年前には、日本社会が全面的に近代化したが、大学ひいては教育制度全体が根本的に変わることはなかった。
つまり今の教育制度も新卒一括採用も、50年前にはとっくに社会・経済システムと不適合となっている。新卒扱いを3年延ばすとか、小手先の風習の改変は無意味。


以下、本文。


◆新卒一括採用は前近代社会の日本で始まった(明治年間)

日本の大学(東京帝国大学)が官僚養成機関として作られたというのは周知のことだけど、もう少し視点を広げて言えば、大学は「前近代社会である日本社会に近代人を送り出す」機関だった。
明治の頃の日本にあった近代産業セクターというのは、官僚と軍人と学校教員、つまり官業の人間がほとんどで、民間では銀行員と商社マンくらい?でとても小さかった。
官の人間の選抜は、学科試験にほぼ全てを拠っていて、当時は東大を卒業すれば無試験で官僚に任官された(もっと遡ると旧制高校を出れば無試験で東大へ入れた)。なので、その世界では新卒即官僚は当たり前の風習だった。
そして、民間セクターの中でも官に近いところで仕事をしてた銀行みたいな奴らが真似をして大卒新卒採用を始め、その後民間近代セクターが広がるに連れてその風習も広がっていった。
前近代セクター(農工商)では、相変わらず世襲と徒弟制度で労働力を再生産していたので、学制の意味や利用価値が理解されてなかった。
だから最初期に学制を利用したのは四民平等で失業状態になった士族が多かった。

※ちなみに、ここで言う「近代人」というのは、高度のリテラシーを持った人というくらいの意味です。大卒=エリートだった時代の大卒者は、高度な日本語+数学+英語+欧州の外国語もう一つ、くらいは当たり前のようにできたみたいですよ。


◆日本社会が近代化して新卒一括採用は社会と適合しなくなった(昭和40年代)

明治以降日本社会は近代化して行き、ポーンと年代を飛ばして昭和40年(1965)頃、もうほぼ社会全体が近代化していた。
高度成長期は昭和30年(1955)から始まったし、教育面では1971年にはもう中卒者よりも大卒者の方が多い状況になっていた。
大学の数は増えた(最初は公的地位が全く与えられていなかった私立大学なんかも学位授与機関として認められるようになった)し、どの時点か忘れたけれども官僚の任官制度も当然帝国大学以外の大学卒業者にも開かれたものになった。
つまり、日本社会が近代化して、東京帝国大学設立時点の「前近代社会に近代人を送り出す」という大学の役割は終わってしまったし、それが支えた新卒採用という制度も意味を失ってしまった。
はずだった。
けれども、大学の教育システムはほとんど変わらなかったし、新卒採用の風習も変わらなかった。
というのも、日本経済が右肩上がりで成長していたので、近代的産業の労働力需要がどんどん増えており、学制が吐き出す労働力は、そのジョブマッチングシステムが多少時代錯誤になっていようが産業がゴンゴン吸収していたために、マッチングシステムの不具合が全く表面化せず、問題と認識されなかったのだった。
昨今の就職難の問題に対して「大卒が多すぎる」という指摘があるのだけど、大卒どころか高卒だって、もう昭和40年代にはダブついていたと考えて良いのだと言える。もし、大学が果たす社会的機能が「前近代社会に近代人を送り出す」というものであるのならば。


◆新卒一括採用のジョブマッチングシステムがおかしいことが表面化した(昭和48年・第一次オイルショック)

水面下でジョブマッチングシステムが腐っていたものの、高度成長期にはそれは全く認識されなかった。
それが認識されるようになったのは、高度成長期の終わり、つまり第一次オイルショックのとき。
企業はこれ以降新卒一括大量採用を絞り、就職難が生じることで、このシステムが機能不全に陥っていることが明らかとなった。
はずだった。
けれども、この時、就職難が主に高卒に起こったからなのか何なのか(ちょろっと探したけど大卒・高卒の求人倍率などの数字が見つからなかった)、社会的に問題になったのはジョブマッチングではなく進路の振り分けの方で、大学進学競争が激化することになり、偏差値教育が大々的に非難される事となった。
大学のあり方や新卒一括採用の慣行は改められることはなかった。
ただし、昭和40年より前は
中卒=下級ブルーカラー(非熟練工)、高卒=上級ブルーカラー(熟練工)&下級ホワイトカラー(単純事務、ノンキャリ)、大卒=上級ホワイトカラー(企業幹部候補、キャリア)
というように学歴が階級を生産していたのが、
中卒=ほとんどいない、高卒=下級上級ブルーカラー&下級ホワイトカラー、大卒=下級上級ホワイトカラー
というように学歴が階級を生産しなくなり、エリートだったはずの大卒も普通の人になってしまった。
高度成長期以前は俸給生活者=サラリーマンはエリートだったのが、社会全体が近代化してブルーカラーまで新卒一括採用されることとなり、みんながサラリーマンになってしまっていたのだった。


◆同じ事の繰り返し(第一次オイルショック~リーマンショック)

高度成長期終了後に起こってきた就職難の構図は基本的にはずっと同じで、
第一次・二次オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、という不況の度に…
 1.新卒一括採用の風習が社会・経済システムに適合してない
 2.なので不況になると新卒無業者and非正規労働者が大量発生
 3.かといって、学生も企業もこの風習をやめることもできない
 4.なので、学生は学歴(学校暦)競争を頑張り、学生の親の世代は偏差値教育・学歴社会を批判する
こういったことを繰り返してきて、特にバブル崩壊後は2007~2009年の一時期を除いてずっと新卒内定率は低いままで、根本的な問題である教育システムと経済システムの接続は何も改善してない。


◆労働市場はグローバル競争になった(最近)

というわけで、日本で起きてきた新卒の就業システムの問題の構図はもう50年変わってない。
ただ、ここ2~3年くらい?5年くらい?10年くらい?で社会・経済のほうは新しい局面に入ったらしい。
昭和30年代に日本に起こったことが他のアジア地域でも起こっているために、近代人の間の競争がもう日本の枠のなかで収まらなくなってしまった。
日本で近代人が特段エリートでなくなりありふれた労働力になっていったように、アジアでも高等・中等教育を受けた人たちが増え、彼らの出先となる労働市場がエリート的仕事だけではなくなってしまった。エリートというのは基本的にその国の中に留まる方が得られる利得(必ずしも経済的利得ではない)が大きいので留まるけれども、そうでない者は特段その国の労働市場に留まらなければならない理由はない。特に途上国では、より経済発展の進んだ国(アジアなら特に日本)の労働市場で働くことには経済的インセンティブがある。また、日本経済が縮小し、日本企業であっても海外ビジネスの方が大きくなってきてしまったので、日本企業の方にも日本の学生を採用しなければならない理由が薄くなってきてしまった。
これまで日本の中の学歴(学校暦)・労働市場で競争をしていた学生たちが、アジア全体の学生と競争をしなければならなくなってしまった。
したがって、直近の就職難はもはや、新卒一括採用すなわり教育システムと経済システムの接続の不具合のような日本の国内的なものとは違う次元の経済原理が働いての事象になってしまっている。


◆新卒一括採用の風習はもはや問題ではない

新卒一括採用の風習は間違っているという批判は当たっていると僕は思う。もうこの風習には何の合理性もない。50年前から!
けれども、もうそれを改善するだけでは新卒の就職難は大きくは変わらない。卒業後3年間を新卒扱いにしても、解雇規制を緩めて人材の流動性を高めることをしても、改善の見込みはとても少ないように思う。
大学(というか学制そのもの)が果たす社会的機能が「(前近代社会に)近代人を送り出す」というものから改革されない限りは、日本が生み出す労働力は「前近代社会では価値がある」という次元に留まるのであって、アジア全体で見ても大して付加価値がない普通の人でしかないわけで、そうである限り、日本の新卒者の就職難はずっと続く。
教育システムがだめだったとしても、個人の努力で世界的人材になる人はもちろんいるけど、「日本の労働者は優れている」という状況にはならない。


※新卒一括採用の問題は、中国や韓国にもあるはず。経済の拡大が止まるか緩まると顕在化する。いや、もう顕在化してるか。
 欧米で同様のことが起こらないのは、大学が官僚育成機関ではなく、近代化以前からある研究者・知識人コミュニティであって、必要あるときや本人が学びたいとき随時加入するものであるからだと思う。欧米の新卒採用の慣行がどうなってるのかは知らないけど。ただ、中国も韓国も欧米も、日本のような解雇規制はないはずで、雇用の流動性は日本より高くて、新卒採用から漏れることが日本ほど深刻なことにならないのかもしれない。