2011年5月19日木曜日

チュートーですよ

サウジではリビング・キッチン付き(つまりスイーツ)のホテル(300リアル≒6000円強/泊)に泊まっているので、時々自炊してる。
豚肉やみりんや日本酒以外は大体手に入るので、意外と普通に自炊できる。

サウジアラビアは特に外国人にとってはマジでリアルに本当に本物のハンパなくエグい程娯楽のない国なので、食事は最大の娯楽で、料理はとても有用な息抜きになる。
大切な事なので二度言いますが、サウジはマジでリアルに本当に本物のハンパなくエグい程女性と触れ合えない国なうえにネット上のポルノもかなり厳しくフィルタリングしています!
ギギギ……

性欲が食欲に転嫁されるわけではないと思うけど、日本にいる時とは飯を楽しみにする度合いが全然違う。自炊でも外食でもいつも飯が楽しみでしょうがないしガッツリ食べてしまう。楽しみなので食ってる飯とかを紹介したくなってついツイートとかしてしまう。そして太る。そして、太る。さらに太る。
一昨日久しぶりに体重を測ったら87kgあった。嘘だろ…
でもそういえば最近撮ってもらった写真には、僕の代わりにラクダや馬の脇に佇む、鶴瓶みたいな感じの顔の見知らぬメガネデブが写ってたんだよなー。ことごとく。

90kgに乗ったらなんとなく取り返しが付かないと思い、部屋でやる腹筋の他にホテルの事務で運動を始めた。一応、ここ3日は続いている。


ちなみに、一人で食ってるような画が多いけど、それはいつもかなり年上の人達と飯を食う関係上、写真を撮ったりするのを遠慮しているからで、かなりの割合で日本人上司と飯を食いに行っている。一緒に作ったりもする。基本的にドライバー付きの社用車しか移動手段がないから、あまり自由行動はない。


エビチリ:
クックドゥ使用。手軽に日本味のおかずができるし運ぶのもかさばらないのでクックドゥはかなり重宝する。

しょうがとチキンのスープ:
チキンをたくさんのしょうがと一緒にコンソメスープで煮た物。風邪引いてたので。

なすとトマトとチキンのスープと、買ってきたアラブサラダ:
サラダの正式名称不明。なんかの香菜を刻んでお酢をかけた物。香りが良くて食欲が湧く。

ゴーヤチャンプルー:
スーパーでゴーヤを普通に売ってるんで驚いたけど、ゴーヤの原産地ってインド~東南アジアなんだな。じゃあアラブへの伝播の方が沖縄・九州より早いよな。






2011年4月21日木曜日

イン・ユーテロ

 サウジ。4度目。
 12日20:50に成田を出て13日24:15(両方日本時間)にリヤドに着いた。疲れた。

 サウジに来ないとブログを書いてはいけないという縛りがあるわけではないがなぜかそうなっている。

 着いた日は砂嵐がひどかった。その日は日本が唯一の招待国として特別展示をしている国民的祭りジャナドリア祭の開会日でもあったんだけど、砂嵐で国王一行がなかなか来れず開会式が8時間遅れるというパンクっぷり。しかも結局国王は来なかった。早い段階で中止しろよもう…国王参加とあって多くの人(要人もかなり含む)が待っていたらしいじゃない。可哀想すぎ。
 開会式が5時間遅れている頃リヤド空港に着いた僕は、入国審査窓口で3時間待たされ、奇しくもちょうど開会式が始まった頃にゲートを出てきた。並んでたのは各列に30人くらいなもんで、特段死ぬほどの混雑ということはなかったが、最初の2時間は列になんの動きもなく、それでいて何の情報もなく、待たされた。一緒に並んでいたパレスチナ系アメリカ人だという青年が「ジョーク、ジョークだろこれ」とブツブツ言っていた。
 入国係官の入国待ちの人々(特に南アジア・東南アジアからの出稼ぎ労働者)に対する扱いはかなり酷く、列を整理するために先頭の人間の肩と襟元を無言で掴んで動かし、後列の方の人間にはバシバシと肩を叩いて回っていた。おいおい、そいつらの殆どもムスリムなんだから、ムスリム同士敬意を払えよと思った。
 なお、税関ではスーツケースを改められ、CD・DVDケースを開けられ「ノー・セックス、アブソリュートリー?」と訊かれたので、「オフコース!アブソリュートリー!」と元気よく答えると、特に再生チェックなどはせず元に戻された。椎名林檎のDVD数本と、こちらの滞在者へのプレゼントである映画(バットマンシリーズ、007シリーズ)などが入っていたが、事実としてノーポルノだったので自信満々に答えてやったぜ! まあ、再生されたら椎名林檎も007も見咎められる可能性はなくはないが。


 毎回サウジ出張では飯をよく食うせいで弛んでいる腹をさらに弛ませて帰るような状態なので、今回は逆に凹ませてかえってやろうと思い、成田でちょうど腹凹特集だったTarzanを買ってきていた。さっそく2日目からチャレンジしたが、最初のステップのページを開いたところいきなり30種類のトレーニングを要求されて即座に萎えた。なんとか10種類だけやったけど、動きを理解するために腹より脳が疲れた。そして次の日の朝にはしっかりと風邪を引いていた。身体が脆すぎる。。。
 山は超えたけどまだ鼻が詰まる。


 女性の肌と見ればなんでも隠したくなるのがサウジ当局だが、果たしてこれは隠す必要があるのだろうか?内臓もポルノだから?ポルノじゃなくてグロだから?だってカートみたいだから?私がコートニーじゃないから?






















2011年2月8日火曜日

英語ができないとどんだけやばいのか


サウジに出張に来ると、日本にいる時よりも長く睡眠をとるのに、眠い。
時差ぼけの影響もあるかもしれないけど、二ヶ月もいた前回もそうだったので、多分日本で仕事するよりも疲れるんだと思う。

今こっちでやってることは会計監査の対応で、実はやった事が無い業務なので、日本でやっても疲れるんだろうけど、不慣れな土地でやってるからなおさら。
特に、何度も何度も書いてるからアレなんだけど、やっぱり英語が問題なのだと思う。
普通の議事録や連絡のメールなんかでも日本語で書く場合の1.5倍位の時間がかかる。
僕の英語の情報処理能力は多分日本語の半分以下なんだろうけど、英語で書いたり話したりするときはアウトプットする分量を絞らざるを得ないので、時間は2倍にはならないんだなー。頭の負荷は高いけど。
そういう意味では要点だけ掻い摘もうという努力にフォーカスが行くのは、外国語を使う利点かもなあ。日本語だと書きすぎちゃうから。


それはさておき、英語ができないとどんだけやばいのか、やはり英語で仕事をすると身につまされてくるので、自分を叱咤するために感じたことをメモしたい。
前の出張時もどこかで似たようなことを書いたけど気にしない。



◆まず、採用されない
サウジでの勤め先では既に8人のサウジ人を雇っているけれども、本社に置いている人員は、最低限、業務連絡くらいは英語で会話ができることを面接で確認して選んでいる。
これは当たり前で、日本人でビジネスレベルのアラビア語ができる人なんでほとんどいないのだから、少なくとも社内にはいないのだから、部下と意思疎通ができるためには部下が英語ができることが必要だ。日本語がペラペラなサウジ人も一人雇っているのだけど、彼は例外。
これと同じことが日本で起こらないなんて、誰が言えるのだろうか?
完全外資の企業であれば当たり前だろうけど、部分外資であっても、ホワイトカラーであれば自分が身を置くレポートラインに一人でも非日本語話者がいれば報告は英語で流さざるを得ない。
だから会社は、それが出来無そうな人は採用しない。
純日本企業であっても、事業を海外展開している場合、ホワイトカラーであれば英語が必須になるのは自明だし。楽天とかユニクロとかソフトバンクの例のように。
よく、「英語が出来ても仕事ができなきゃしょうがない」と言う人がいて、その文言自体は間違いじゃないけど、英語でビジネスする環境では英語ができないと仕事にならない。「英語が出来ることに付加価値はない」ということは「英語ができなくてもよい」ということは違う。それらを取り違えないようにしないと困る。


◆低い階層の職に採用されるかもしれないけど、昇進できない
サウジの工場では作業員を雇う。彼らには英語が出来るかどうかは不問で、人材派遣会社に人選を任せる。まあ、話せるに越したことはないけど。というのも、幹部やスタッフ(製造・技術・事務含む)が彼らに直接指示を出すことはないから。
逆に考えると、現業職であっても、スタッフ以上の人員と直接やり取りするクラス(現場の一工程の1シフトの長相当)には英語でのコミニュケーション能力が要求されるということなんだなー。
とすれば、英語ができない場合、上の作業員から指示されたことのみを黙々とやる単純労働からは抜け出せないことになる。技能の問題ではなく英語の問題で。
ただ、インド人は底辺の人でも流暢に英語話すんだよねー。僕は聞き取れないんだけど。

あと、オフィス仕事で言うと、ある程度英語での会話で意思疎通ができれば、読み書きが怪しくても事務作業員にはなれる。
でも、読み書きが怪しいと、スタッフ(ホワイトカラー、総合職)にはなれないんじゃないだろうか。
話してると特に英語に不自由な感じはしないけど書かせると全然意味が分からない英文を書く人というのもいて、単純な連絡事項のメールくらいならいいけど議事録とかはきつい。多分彼らは学校での規範的教育ではなくいきなり仕事上の実践で英語を学んだんだろうなあ。なんでA4×2枚の報告書に5個くらいしかピリオドがないんだろう?
経営者への報告は通常文書でするので、書けないと一定以上の階層の職員にはできないと思う。


◆結論:
日本経済がもっとグローバル化したら、普通の民間企業では、英語ができないとホワイトカラーにはなれない。もしくは、なれる可能性がとても低くなる。



2011年1月16日日曜日

新卒就職難のこと


昨日、大田出版の藤岡さんとかがみさんと呑んで、就活のことなど話した。
自分が苦労したこともあり、前々から新卒就職難の構造については自分の考えをまとめておきたいと思っていたので、思ったことを書き出してみた。
現在手元にない昔読んだ本の記憶の断片を拾って書くので、間違いがあっても勘弁してください。

脳内参考文献は、竹内洋、天野郁夫、山田昌弘、苅谷剛彦、中西新太郎、佐藤俊樹、あたりの本(頻度高い順)です。多分。

えらく長くなってしまったので、要約:

大学(学制)と新卒一括採用の風習は130年前の前近代社会日本で生まれた。
当時の大学の役割は「前近代社会へ近代人を送り出すこと」だった。
50年前には、日本社会が全面的に近代化したが、大学ひいては教育制度全体が根本的に変わることはなかった。
つまり今の教育制度も新卒一括採用も、50年前にはとっくに社会・経済システムと不適合となっている。新卒扱いを3年延ばすとか、小手先の風習の改変は無意味。


以下、本文。


◆新卒一括採用は前近代社会の日本で始まった(明治年間)

日本の大学(東京帝国大学)が官僚養成機関として作られたというのは周知のことだけど、もう少し視点を広げて言えば、大学は「前近代社会である日本社会に近代人を送り出す」機関だった。
明治の頃の日本にあった近代産業セクターというのは、官僚と軍人と学校教員、つまり官業の人間がほとんどで、民間では銀行員と商社マンくらい?でとても小さかった。
官の人間の選抜は、学科試験にほぼ全てを拠っていて、当時は東大を卒業すれば無試験で官僚に任官された(もっと遡ると旧制高校を出れば無試験で東大へ入れた)。なので、その世界では新卒即官僚は当たり前の風習だった。
そして、民間セクターの中でも官に近いところで仕事をしてた銀行みたいな奴らが真似をして大卒新卒採用を始め、その後民間近代セクターが広がるに連れてその風習も広がっていった。
前近代セクター(農工商)では、相変わらず世襲と徒弟制度で労働力を再生産していたので、学制の意味や利用価値が理解されてなかった。
だから最初期に学制を利用したのは四民平等で失業状態になった士族が多かった。

※ちなみに、ここで言う「近代人」というのは、高度のリテラシーを持った人というくらいの意味です。大卒=エリートだった時代の大卒者は、高度な日本語+数学+英語+欧州の外国語もう一つ、くらいは当たり前のようにできたみたいですよ。


◆日本社会が近代化して新卒一括採用は社会と適合しなくなった(昭和40年代)

明治以降日本社会は近代化して行き、ポーンと年代を飛ばして昭和40年(1965)頃、もうほぼ社会全体が近代化していた。
高度成長期は昭和30年(1955)から始まったし、教育面では1971年にはもう中卒者よりも大卒者の方が多い状況になっていた。
大学の数は増えた(最初は公的地位が全く与えられていなかった私立大学なんかも学位授与機関として認められるようになった)し、どの時点か忘れたけれども官僚の任官制度も当然帝国大学以外の大学卒業者にも開かれたものになった。
つまり、日本社会が近代化して、東京帝国大学設立時点の「前近代社会に近代人を送り出す」という大学の役割は終わってしまったし、それが支えた新卒採用という制度も意味を失ってしまった。
はずだった。
けれども、大学の教育システムはほとんど変わらなかったし、新卒採用の風習も変わらなかった。
というのも、日本経済が右肩上がりで成長していたので、近代的産業の労働力需要がどんどん増えており、学制が吐き出す労働力は、そのジョブマッチングシステムが多少時代錯誤になっていようが産業がゴンゴン吸収していたために、マッチングシステムの不具合が全く表面化せず、問題と認識されなかったのだった。
昨今の就職難の問題に対して「大卒が多すぎる」という指摘があるのだけど、大卒どころか高卒だって、もう昭和40年代にはダブついていたと考えて良いのだと言える。もし、大学が果たす社会的機能が「前近代社会に近代人を送り出す」というものであるのならば。


◆新卒一括採用のジョブマッチングシステムがおかしいことが表面化した(昭和48年・第一次オイルショック)

水面下でジョブマッチングシステムが腐っていたものの、高度成長期にはそれは全く認識されなかった。
それが認識されるようになったのは、高度成長期の終わり、つまり第一次オイルショックのとき。
企業はこれ以降新卒一括大量採用を絞り、就職難が生じることで、このシステムが機能不全に陥っていることが明らかとなった。
はずだった。
けれども、この時、就職難が主に高卒に起こったからなのか何なのか(ちょろっと探したけど大卒・高卒の求人倍率などの数字が見つからなかった)、社会的に問題になったのはジョブマッチングではなく進路の振り分けの方で、大学進学競争が激化することになり、偏差値教育が大々的に非難される事となった。
大学のあり方や新卒一括採用の慣行は改められることはなかった。
ただし、昭和40年より前は
中卒=下級ブルーカラー(非熟練工)、高卒=上級ブルーカラー(熟練工)&下級ホワイトカラー(単純事務、ノンキャリ)、大卒=上級ホワイトカラー(企業幹部候補、キャリア)
というように学歴が階級を生産していたのが、
中卒=ほとんどいない、高卒=下級上級ブルーカラー&下級ホワイトカラー、大卒=下級上級ホワイトカラー
というように学歴が階級を生産しなくなり、エリートだったはずの大卒も普通の人になってしまった。
高度成長期以前は俸給生活者=サラリーマンはエリートだったのが、社会全体が近代化してブルーカラーまで新卒一括採用されることとなり、みんながサラリーマンになってしまっていたのだった。


◆同じ事の繰り返し(第一次オイルショック~リーマンショック)

高度成長期終了後に起こってきた就職難の構図は基本的にはずっと同じで、
第一次・二次オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、という不況の度に…
 1.新卒一括採用の風習が社会・経済システムに適合してない
 2.なので不況になると新卒無業者and非正規労働者が大量発生
 3.かといって、学生も企業もこの風習をやめることもできない
 4.なので、学生は学歴(学校暦)競争を頑張り、学生の親の世代は偏差値教育・学歴社会を批判する
こういったことを繰り返してきて、特にバブル崩壊後は2007~2009年の一時期を除いてずっと新卒内定率は低いままで、根本的な問題である教育システムと経済システムの接続は何も改善してない。


◆労働市場はグローバル競争になった(最近)

というわけで、日本で起きてきた新卒の就業システムの問題の構図はもう50年変わってない。
ただ、ここ2~3年くらい?5年くらい?10年くらい?で社会・経済のほうは新しい局面に入ったらしい。
昭和30年代に日本に起こったことが他のアジア地域でも起こっているために、近代人の間の競争がもう日本の枠のなかで収まらなくなってしまった。
日本で近代人が特段エリートでなくなりありふれた労働力になっていったように、アジアでも高等・中等教育を受けた人たちが増え、彼らの出先となる労働市場がエリート的仕事だけではなくなってしまった。エリートというのは基本的にその国の中に留まる方が得られる利得(必ずしも経済的利得ではない)が大きいので留まるけれども、そうでない者は特段その国の労働市場に留まらなければならない理由はない。特に途上国では、より経済発展の進んだ国(アジアなら特に日本)の労働市場で働くことには経済的インセンティブがある。また、日本経済が縮小し、日本企業であっても海外ビジネスの方が大きくなってきてしまったので、日本企業の方にも日本の学生を採用しなければならない理由が薄くなってきてしまった。
これまで日本の中の学歴(学校暦)・労働市場で競争をしていた学生たちが、アジア全体の学生と競争をしなければならなくなってしまった。
したがって、直近の就職難はもはや、新卒一括採用すなわり教育システムと経済システムの接続の不具合のような日本の国内的なものとは違う次元の経済原理が働いての事象になってしまっている。


◆新卒一括採用の風習はもはや問題ではない

新卒一括採用の風習は間違っているという批判は当たっていると僕は思う。もうこの風習には何の合理性もない。50年前から!
けれども、もうそれを改善するだけでは新卒の就職難は大きくは変わらない。卒業後3年間を新卒扱いにしても、解雇規制を緩めて人材の流動性を高めることをしても、改善の見込みはとても少ないように思う。
大学(というか学制そのもの)が果たす社会的機能が「(前近代社会に)近代人を送り出す」というものから改革されない限りは、日本が生み出す労働力は「前近代社会では価値がある」という次元に留まるのであって、アジア全体で見ても大して付加価値がない普通の人でしかないわけで、そうである限り、日本の新卒者の就職難はずっと続く。
教育システムがだめだったとしても、個人の努力で世界的人材になる人はもちろんいるけど、「日本の労働者は優れている」という状況にはならない。


※新卒一括採用の問題は、中国や韓国にもあるはず。経済の拡大が止まるか緩まると顕在化する。いや、もう顕在化してるか。
 欧米で同様のことが起こらないのは、大学が官僚育成機関ではなく、近代化以前からある研究者・知識人コミュニティであって、必要あるときや本人が学びたいとき随時加入するものであるからだと思う。欧米の新卒採用の慣行がどうなってるのかは知らないけど。ただ、中国も韓国も欧米も、日本のような解雇規制はないはずで、雇用の流動性は日本より高くて、新卒採用から漏れることが日本ほど深刻なことにならないのかもしれない。